それも、またぼくはこうするなと、あらかじめわかるものがいい。こんなふうな習慣がひとつあって、光っていれば、急に変なものがやってこない感じがするのだ。


文字のこだわりからぬけでたとき、文章も考えもおとなになるのだろう。文章は、文字ではなく内容なのだから。


二人はとても悲しい時間のなかで、とても楽しい小説の話をしているのだ。少しでも時間があって、もっと二人が楽しくなればいいのにと僕は思った。人生は誰のものでも悲しいが悲しいところを見なくては、感じとれなくては、いっそう悲しいものになる。


まねをする人はしない人より心が自由であることはたしかだ。いつまでも自分をにぎりしめていない人だから。


世の中には、幸せだと感じると、そこで「幸せだ」と、材料もそろわぬうちに述べてしまう人がいるものだ。そして少しあとになって、「ほんとうにあの頃は幸せだった」と思うのである。自分が口にした通りだと、思うのである。


「ことばと、つきあってみてください。何があるかはわからないけれど、そのうちにきっといいことがありますよ」と。酔っていないとき、午後七時ごろまでの彼のことばはきれいだ。


「忘れられる過去」荒川洋治